出版物では使えない言葉が存在すること。まあいわゆる差別用語ってやつだね。小説はまあ、それほどひどくないんだけど、コンシューマーゲームなんかはかなり使えない言葉が多い。坊主とかね。あと四つ辻とかも使えなかったような気がする。四つに通じるからとか。アホかと思うんだけど、自主規制とかの決まりごとなんでしょうがなく従うわけだ。使えない言葉に限って味があって、悲しい気分になることが多い。
確かに、制限のある中で面白いものを作るのがプロっちゃあプロだと思うんだけど、実際不可能じゃないと思うんだけど、僕はやっぱりこの差別語云々はどうかと思う。気にする人がいる以上、使わないのがマナーだとは思う。幸い僕は差別を受けたことがないから、その気持ちはわからないのだが、小説やゲームなんて、人を傷つけてまで存在せねばならないほどのもんじゃないとも思う。とにかくどっちも、そんなに大したもんじゃないし。
僕がイヤだな、と思うのは言葉狩りによって生じる『表現が規制される』といった職業上の不都合ではなく、『なかったことにされる』ことだ。
現実として、差別の歴史はあったわけだ。僕らは何かを差別しなきゃ生きていけない。人種や性差や身分や職業でのそれが違法になると、今度は趣味でそれを行っている。自分と違う生き方や趣味を持っている人間を、僕らがどれだけ辛らつな言葉であげつらうか思い出してみるといい(DQN、オタク等)。
差別はあった。そしてこれからもなくならない。例えばの一例だけど、差別をなくすということは、ギャグ作品をなくすということとほぼ同義だからだ。ギャグというのはその構造上、”何かをバカにする”ことで成り立っています。自虐ギャグは自分をバカにしてる。”バカにする”ってのは立派な差別だからね。差別はもう、人間の一部みたいなもんだ。
さて、言葉狩りには、『これはいけないことだから、なかったことにしよう』という匂いを感じるんだよ。それは僕たちのご先祖に対して、ひどく失礼なことじゃないのだろうか。僕らのご先祖は、排便も放屁もしなかっただろうか。そんなことはない。昔の人たちは聖人君子ばかりじゃあなかったかもしれないが、根っからの悪人ばかりだったわけでもない。
なくさなきゃいけない差別というものはもちろんある。皮膚の色や生まれなどで、その後の人生が決定されるようなことはあってはならない。でも、その歴史まで”なかったことにする”というのはなんか違う。僕たちは自分の父や祖父の選択を、生き方を、否定することはあっても消してはいけないと思う。
例えばの話、ドイツでは戦後の処理を『すべてナチスの所為にする』ことで、新たな欧州の枠組みに入ることを許された。このことをとって、日本の戦後処理と比較して、日本を非難する人たちがいる。僕はドイツのこのやり方を、とても政治的に優れた処置だと思うが、人間的に優れているとは思えない。ナチスは本当にドイツ国民と隔絶した、独立した悪の組織だっただろうか? 日本軍部は、百パーセント日本国民を騙しえただろうか?ちょっと歴史を勉強すればわかると思うけど、どちらもまったくそんなことはなかった。ナチスの勝利に、日本の軍国主義に酔いしれたのは僕たちの祖父母だった。ナチスも日本軍国主義も、その細部を構成していたのは僕らとかわらない普通の人たちだったんだよ。ドイツではナチスを肯定的に研究することは違法だという。それで果たして、ことの本質が探れるだろうか? 一方向のベクトルでしか許されない研究。それは本当の意味での研究成果を残すことができるだろうか? 僕にはそうは思えない。日本であまり軍国主義に対するヒステリーが、ドイツほどに一般人に浸透しないのは、たぶん一種の後ろめたさがあるからではないか。日本人はそこまでドライになれなかった。たぶん、すべてを軍国主義の所為にするには正直すぎたんだよ。そんなご先祖の生き様を、ただ”悪い”と否定することは簡単だけど、それじゃあホントの理由は見えない。その時代、そうするしかない選択というのは確実に存在するし、実際のホントのことは誰にもわからない。何が正しいか悪いかなんて、後世の歴史家にだって、本当は決められない。世の流れがそうだからと、表面だけ見て後世の知恵でもってそれを否定して、”なかったこと”にするぐらいなら死んだほうがマシだとさえ僕は思う。
ナチスを指して狂気の集団という連中。戦時中をさして狂気の時代という人々。ナチスも、僕らもご先祖も、まったく狂ってなんかいなかった。狂人の集団に、国を動かすことはできない。ユダヤ人狩りや原爆投下や天安門や中国戦線での日本軍の蛮行、そして差別。これらすべてを行わせたのは狂気じゃなく、理性だということを忘れてはいけない。行ったのは抽象的な”戦争”や”狂気”じゃなく、現実として存在する僕たちのご先祖である人間の手だということを忘れてはいけない。僕もその場にいたら、同じことをやったと思う。あの時代、あの場所に、あの立場でいたら、僕もガス室の扉を閉めただろう。僕もエノラゲイでスイッチを押しただろう。戦車のアクセルを吹かしただろう。刀を振り下ろしただろう。
狂気と言いくくってそれで終わりにする行為、そして言葉狩りには、なんかそういった想像力が欠けている気がする。人間は綺麗なだけじゃない。汚い部分を持っている。当然だよね。言葉狩りには、そういった部分から目をそらそうという嫌な自己保身が見え隠れする。飲み込む勇気が欠けている。だから僕は嫌いだ。
なんでこんなことを書いているのかというと、最近『ダルタニャン物語』を読み返したくなったのですが、紛失してしまってですね。買おうと思ったら僕のダイスキな鈴木力衛訳版が絶版になってたからなんです。復刊ドットコムで出したらしいが、一冊二千円もする。その絶版理由を調べたら、『差別用語が多いから』だそうで。こんなバカな話があるか! 他の訳者が訳したものもあるけど、海外小説ってのは、五割訳者の力で面白さが変わると思う。『ダルタニャン物語』みたいな歴史ものならなおさら。正直、海外小説ファンで訳者をあんまり気にする人いないけど、大きな間違いだ。訳者で面白さは変わる。あなたがその本に感じている魅力の半分は、訳者の魅力です。とにかく、『差別用語多い』、そんなくだらない理由であの傑作鈴木力衛訳版が読めないなんて、絶対間違ってる。なかったことにすんな。
2 件のコメント:
理性がもたらした"蛮行"という言葉に感銘を受けました。
考えてみると、なるほど確かに大衆が抱く価値観、思想を狂気と断罪して切って捨てるような姿勢は奇妙ですよね。構造主義的で冷静なご意見だと思います。
概ね同意するお話でしたが、中国での日本軍の蛮行、と言うものに対して、コメントを残させていただきます。
刀を振り下ろす、と言う点で、私は百人斬りの嘘記事を思い出したのですが、これはどのような事実を元にしたお話でしょうか。
私が、自分で調べればいいだけのことかもしれませんが……生意気なコメントをお許しください。
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