2008年10月23日木曜日

三文字

で、存在しない単語を見つけるのは難しい。

検索すると、なんらかの単語が引っかかってしまうのです。
たとえば、ポコロ。
なんだこりゃって感じだが、こんな言葉にもちゃんと意味はある。なんかの名前だ。
探偵ポコロという本が存在している。すごい。この出会いもいい。ぼくがたったいま適当に考えた『ポコロ』という単語を主人公の名前にして、本を書いた人がいるのだ。こう思うと運命すら感じる。アマゾンで注文した。どんな本なんだろう。わくわく。

脱線したが、そういうことである。使われてない文字列を見つけることは難しい。四文字だとぐっと難易度は下がるのだが。たとえば『ゲゼタラ』これは検索でゼロだった。『ゲゼタラ』という言葉を使おうと思った人間は存在しないのだ。ゲゼタラは処女地だったのだ。でも、四文字ではなんら不思議ではない。そこはありふれた不毛の土地なのだ。五文字になるともう、草も生えない。そこまでくると、言葉はもう、人間の営みの範囲を超えた、宇宙と化す。ぼくたちが名前をつけたものなんて、所詮宇宙の広がりに比べれば数えられるものでしかない。

したがって三文字。そこはまだ人間の土地だ。二文字になると、もう残りの土地はない。
三文字。結構苦労して、ぼくは新天地を見つけた。その名もゲゴドだ。
『ゲゴド』。ぐぐりたまえ。ゼロだ。ゼロゼロだ。いや、今ではぼくのこのブログがあるからゼロではない。ぼくは『ゲゴド』に到達した初めての人類になった。ここにおれの旗を立てよう。ゲゴドの地に、おれの旗を立てよう。さてゲゴド、どうあがいても普通の名前にはならない。見つけたはいいが、怪獣の名前、百歩ゆずってなんらかの隠語という設定ぐらいしか与えられない語感を持つ言葉に過ぎない。

でもきっとある。
語感美しく、三文字で、誰も使っていない言葉が。そこの言葉こそユートピアだ。
ぼくの真の到達地平だ。それを見つけたとき、ぼくは歓喜する。なき、わめき、生まれてきたことを神に感謝するだろう。いや、むしろぼくはかの三文字を神の名前にするだろう。祝福、真の祝福! ゴッド! ゴッドブレスユー!

2008年9月11日木曜日

すいそう




最近の水槽です。


有茎草のメンテのわずらわしさに参ってしまい、思い切ってロタラを取り除き、シダとナナメインに。狂ったように安い流木にミクロソリウムを活着させまくり、今では立派なシダ水槽。




最近わかったこと。




・ボルビは光が強いと、あんまり育ってくれないこと。


・ナナは光が強いといじけること。


・結局陰性メインにするんなら、メタハラなんかやめればよかったこと。


・モスはほっとくとすぐにどえらいことになること。


・グロッソもどえらいことになること。


・この二つはまめにいじれる人じゃないときついこと。


・前景に普通のヘアグラスを使うと、後ろが何にも見えなくなること。したがってトリミングするわけだけど、ヘアグラスのトリミングすると細い葉がモスにからまってこの上なく見苦しくなること。


・テトラの外部フィルターは、パイプと本体をつなぐ部分での(穴←こんなかたちのやつ)パイプ取り外しを何度も行うと、中のパッキンがずれて水漏れしやすいこと。おかげでひどい目にあったこと。その上あのバスケットのおかげでEX120といえど、ろ材は8リットルぐらいしか入らないこと。やっぱ高くてもフィルタはエーハイムに限ること。


・エーハイムはドイツ人のエーハイムさんが作った会社のこと。


・シャアズゴまで出したジオンカードをなくしてしまったので、絆はやめてしまったこと。


・こうなるんなら一回ぐらい旧ザクを使うべきだったこと。


・こうなるんなら一回ぐらいドムキャノンを使うべきだったこと。


・結局最後まで高機動ゲルググをうまく使うことができなかったこと。


・仕事がなかなか終わんないこと


・ノボルがんばれ


・がんばれノボル


2008年8月14日木曜日

短編

以前、『つっぱれ有栖川』の挿絵を描いていただいた有馬啓太郎さんの本に参加させていただきました。みじかいっすけど、短編小説が載ってます。よろしくです!

『玻璃の空』

8月16日土曜日 東1ホール A-15ab サークル名: 日本ワルワル同盟 / ElectromagneticWave(合体スペース)

http://www.waruwaru.com/

夏コミで販売しています!

2008年7月17日木曜日

ぽーにょぽにょぽにょ

さかなのこー。

昨日の日記に、とんでもなところから反応がありまして、名前は伏せますが、親父から電話がかかってきて怒られました。
『迂闊に政治や差別の話をするんじゃねえ』と。
お前には中学生とかの若い読者もいる。変な悪影響を与えたらどうするんだとも言われました。
くすん。三十六才にもなって親父に説教食らうとはおもわなんだよ……。

さて、確かに僕の読者には若い人たちもいる。そういう人たちには、あまり書いてはいけないような内容だったかもしれません。したがって、中高生の若い人たちに、言いたいことがあります。

僕の意見はあくまで僕の意見であって、もちろん間違っていることもあるということです。世の中にはいろんな意見を持つ人がいる。当たり前のことですが、そういういった一つ一つの意見を尊重できる大人になってください。好きな作品の作者だからといって、その意見に盲従してはいけません。まあ、そんな人はいないでしょうが。念のため。

人の数だけ正義があります。声高に何かを糾弾するより、赦せる心を大事にしてください。僕は残念なことに、そうではありませんが、努力するつもりです。

というか名前でブログやってると、身内も見るのな。しょうがないんだけど、せつない気分であります。

2008年7月14日月曜日

言葉狩りとナチス狩り

 僕はシナリオや小説を書いて生計を立てているわけなんだけど、こういう仕事をしていると、かならず出くわすことがある。
 出版物では使えない言葉が存在すること。まあいわゆる差別用語ってやつだね。小説はまあ、それほどひどくないんだけど、コンシューマーゲームなんかはかなり使えない言葉が多い。坊主とかね。あと四つ辻とかも使えなかったような気がする。四つに通じるからとか。アホかと思うんだけど、自主規制とかの決まりごとなんでしょうがなく従うわけだ。使えない言葉に限って味があって、悲しい気分になることが多い。

 確かに、制限のある中で面白いものを作るのがプロっちゃあプロだと思うんだけど、実際不可能じゃないと思うんだけど、僕はやっぱりこの差別語云々はどうかと思う。気にする人がいる以上、使わないのがマナーだとは思う。幸い僕は差別を受けたことがないから、その気持ちはわからないのだが、小説やゲームなんて、人を傷つけてまで存在せねばならないほどのもんじゃないとも思う。とにかくどっちも、そんなに大したもんじゃないし。

 僕がイヤだな、と思うのは言葉狩りによって生じる『表現が規制される』といった職業上の不都合ではなく、『なかったことにされる』ことだ。
 現実として、差別の歴史はあったわけだ。僕らは何かを差別しなきゃ生きていけない。人種や性差や身分や職業でのそれが違法になると、今度は趣味でそれを行っている。自分と違う生き方や趣味を持っている人間を、僕らがどれだけ辛らつな言葉であげつらうか思い出してみるといい(DQN、オタク等)。

 差別はあった。そしてこれからもなくならない。例えばの一例だけど、差別をなくすということは、ギャグ作品をなくすということとほぼ同義だからだ。ギャグというのはその構造上、”何かをバカにする”ことで成り立っています。自虐ギャグは自分をバカにしてる。”バカにする”ってのは立派な差別だからね。差別はもう、人間の一部みたいなもんだ。

 さて、言葉狩りには、『これはいけないことだから、なかったことにしよう』という匂いを感じるんだよ。それは僕たちのご先祖に対して、ひどく失礼なことじゃないのだろうか。僕らのご先祖は、排便も放屁もしなかっただろうか。そんなことはない。昔の人たちは聖人君子ばかりじゃあなかったかもしれないが、根っからの悪人ばかりだったわけでもない。

 なくさなきゃいけない差別というものはもちろんある。皮膚の色や生まれなどで、その後の人生が決定されるようなことはあってはならない。でも、その歴史まで”なかったことにする”というのはなんか違う。僕たちは自分の父や祖父の選択を、生き方を、否定することはあっても消してはいけないと思う。

 例えばの話、ドイツでは戦後の処理を『すべてナチスの所為にする』ことで、新たな欧州の枠組みに入ることを許された。このことをとって、日本の戦後処理と比較して、日本を非難する人たちがいる。僕はドイツのこのやり方を、とても政治的に優れた処置だと思うが、人間的に優れているとは思えない。ナチスは本当にドイツ国民と隔絶した、独立した悪の組織だっただろうか? 日本軍部は、百パーセント日本国民を騙しえただろうか?ちょっと歴史を勉強すればわかると思うけど、どちらもまったくそんなことはなかった。ナチスの勝利に、日本の軍国主義に酔いしれたのは僕たちの祖父母だった。ナチスも日本軍国主義も、その細部を構成していたのは僕らとかわらない普通の人たちだったんだよ。ドイツではナチスを肯定的に研究することは違法だという。それで果たして、ことの本質が探れるだろうか? 一方向のベクトルでしか許されない研究。それは本当の意味での研究成果を残すことができるだろうか? 僕にはそうは思えない。日本であまり軍国主義に対するヒステリーが、ドイツほどに一般人に浸透しないのは、たぶん一種の後ろめたさがあるからではないか。日本人はそこまでドライになれなかった。たぶん、すべてを軍国主義の所為にするには正直すぎたんだよ。そんなご先祖の生き様を、ただ”悪い”と否定することは簡単だけど、それじゃあホントの理由は見えない。その時代、そうするしかない選択というのは確実に存在するし、実際のホントのことは誰にもわからない。何が正しいか悪いかなんて、後世の歴史家にだって、本当は決められない。世の流れがそうだからと、表面だけ見て後世の知恵でもってそれを否定して、”なかったこと”にするぐらいなら死んだほうがマシだとさえ僕は思う。

 ナチスを指して狂気の集団という連中。戦時中をさして狂気の時代という人々。ナチスも、僕らもご先祖も、まったく狂ってなんかいなかった。狂人の集団に、国を動かすことはできない。ユダヤ人狩りや原爆投下や天安門や中国戦線での日本軍の蛮行、そして差別。これらすべてを行わせたのは狂気じゃなく、理性だということを忘れてはいけない。行ったのは抽象的な”戦争”や”狂気”じゃなく、現実として存在する僕たちのご先祖である人間の手だということを忘れてはいけない。僕もその場にいたら、同じことをやったと思う。あの時代、あの場所に、あの立場でいたら、僕もガス室の扉を閉めただろう。僕もエノラゲイでスイッチを押しただろう。戦車のアクセルを吹かしただろう。刀を振り下ろしただろう。

 狂気と言いくくってそれで終わりにする行為、そして言葉狩りには、なんかそういった想像力が欠けている気がする。人間は綺麗なだけじゃない。汚い部分を持っている。当然だよね。言葉狩りには、そういった部分から目をそらそうという嫌な自己保身が見え隠れする。飲み込む勇気が欠けている。だから僕は嫌いだ。

 なんでこんなことを書いているのかというと、最近『ダルタニャン物語』を読み返したくなったのですが、紛失してしまってですね。買おうと思ったら僕のダイスキな鈴木力衛訳版が絶版になってたからなんです。復刊ドットコムで出したらしいが、一冊二千円もする。その絶版理由を調べたら、『差別用語が多いから』だそうで。こんなバカな話があるか! 他の訳者が訳したものもあるけど、海外小説ってのは、五割訳者の力で面白さが変わると思う。『ダルタニャン物語』みたいな歴史ものならなおさら。正直、海外小説ファンで訳者をあんまり気にする人いないけど、大きな間違いだ。訳者で面白さは変わる。あなたがその本に感じている魅力の半分は、訳者の魅力です。とにかく、『差別用語多い』、そんなくだらない理由であの傑作鈴木力衛訳版が読めないなんて、絶対間違ってる。なかったことにすんな。

2008年6月29日日曜日

イベント

本日、銀座パセラでゼロの使い魔先行上映イベントが行われ、ぼくも出演させていただきました。雨の中、集まってくださった皆さんありがとうございます。抽選だったので、来たくても来られなかったかたはほんとすいません。なんか応募が千八百とかあったとか……。枠は三百なのに。ありがとうございます。小学生以来の早口言葉をやってみたりとか、とても面白いイベントでした。早口言葉、あんなん無理だわ。声優さんとかアナウンサーさんはすごいねえ。

第一話も、とてもいい感じでした。素晴らしい。本放送が楽しみです。本日出演していただいた、声優の井上さんやいのくちさんのブログに写真つきで詳細が載ってました。

http://plaza.rakuten.co.jp/nanakodiary/

http://blog.animate.tv/yukatan/

三期もよろしくです!

ストライクウィッチーズの三巻も出ています。

http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=200710000051

こちらの本編も今夏、アニメが放映されるのでよろしくお願いします。

http://s-witch.cute.or.jp/

どうぞよろしくお願いいたします。

2008年5月21日水曜日

ギャンについて

戦場の絆、ギャンがでたよ\(^o^)/

ギャンを操り、切ったり切られたりをしながら、昔作ったガンプラを思い出した。その頃、ガンプラは異常な熱狂を持って小学生少年に迎え入れられていたのです。
小学校四年当時、ギャンは出たばっかりで、ぼくは胸を躍らせながら、多賀のおもちゃ屋「かざみ」に並んだ。でも、ギャンは買えなかった。やっと手に入れたとき、ぼくは感動で涙した。こいつはケッサクに仕上げようと一生懸命に作ったが、失敗して腕が折れた。あの絶望感といったら!

よくゲーセンで、ぼくは三十代の人といっしょにやる。お互い、何をしてるのか知らない。昼間っからガンダムゲームをしている三十代なんて、ともに詮索しあわないのはある意味正しいルールだ。

「さっきギャンが出ましたよ」
「おお」
「いやー」
「なんすか?」
「おれたち三十過ぎじゃないですか」
「ええ」
「小学校のとき、ガンプラ作りませんでした?」
「作りましたね」
「あの頃は、まさか三十代になってガンダムゲームをまだやってるなんて想像しませんでしたよ」
「はは。ぼくもです」

脳裏によぎるのはなんだろう? プラモ棚に並んだドダイの山。角川書店の新年会で見た富野監督のお姿。ジャブロー降下戦。ポリパテとプラバンで作った高機動型ザク。鳴り響く『哀戦士』。ぼくはスティックを握る。この瞬間、ぼくはアムロになるのだ。いや、今はマクベだ。

「これはよいものだ」
「なんか言いました?」
「いえ……、なんでもないっす。次どうします?」
「まあ、あっちとこっちの様子見て。臨機応変で。ギャンいいっすか?」
「いいっす」

ア・バオアクーはまだ落ちていない。